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ご無沙汰しております。

 投稿者:伊東潤  投稿日:2017年11月26日(日)14時24分49秒
返信・引用
  落合様

佐山藩の研究は価値がありますね。
せっかく『深重の海』を読み終わったのなら、ぜひ読書会にも参加下さい。
12/2に行われますが、東京ですので難しいかもしれないですね。
実生活もがんばって下さい。

読書会の詳細はこちらになります。

http://peatix.com/event/312225/view
 
 

深重の海

 投稿者:落合芳和  投稿日:2017年11月19日(日)23時59分34秒
返信・引用
  18日土曜日、読了しました。和歌山弁の台詞に最初は戸惑いましたが、読んでいるうちにだんだん慣れて真ん中あたりから一気に読んでしまいました。重い内容で、どのように思ってみても、安全な場所から、ああすればよかったやこうすればよかったと軽々しく言えない、重みのある作品でした。蓮如上人の御文か何かで、一呼吸の間も人間の命はどうなるのかわからないというような、言葉があったのを思い出しました。また、間をおいて読み直そうと思います。素晴らしい作品を薦めていただき、ありがとうございました。  

深重の海

 投稿者:落合芳和  投稿日:2017年11月13日(月)00時08分3秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。メルマガ毎回楽しみにしています。先日メルマガの方で紹介されていた津本陽さんの『深重の海』の文庫本を見つけたので、早速読み始めています。私生活が落ち着きましたら、狭山藩のことなどもブログにまとめるなりしようと考えています。今は実生活が『武田家滅亡』状態ですので、なんとか活路を開いて、ゆっくり伊東先生の作品を読みたいです。『峠越え』いい作品ですね。思わず2度続けて読みました。  

ありがとうございます。

 投稿者:伊東潤  投稿日:2017年10月 8日(日)15時15分55秒
返信・引用
  詳細な論考を掲載いただき、ありがとうございます。  

幕末と鹿児島眞田家

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年10月 2日(月)04時55分38秒
返信・引用
   もともと島津義弘は徳川家康の味方だった。島津義弘は、関ケ原の戦いの前、徳川家康に味方しようとして伏見城に申し入れたが、鳥居元忠がこれを信用せず申し入れを断ったため、やむを得ず、西軍についた形となった。しかし、徳川家康とは戦う気がなかったので、石田光成の督促にも応じず、最後まで徳川家康と戦わなかった。島津義弘は、逃げるとき、後ろに逃げるとやられるので、前に逃げた。いわゆる「島津の退き口」と言われるものです。後になってからもこの点を主張するとともに、国境の警備を固くしたため、成り行きでしかたなく西軍となったものの、本領を安堵されました。眞田幸村・大助親子や豊臣秀頼・国松親子や木村重成らを薩摩に逃がしたのも、徳川幕府に改易されそうになった時の最後の隠し玉として使おうとしていた。それまでは表面上はこれを秘密にしていた。眞田幸村の長男・眞田大助幸昌も島津家の養子に入れて隠していた。幕末も、最初は徳川幕府についていたが、諸外国から日本を守るため、長州と共に討幕を断行した。決して、徳川幕府を目の敵にしていたわけではない。討幕は、眞田家とは関係なく、西郷隆盛や大久保利通らが勝手にやったものです。
 薩摩藩士は徳川幕府の無理難題に苦しめられた。しかし、江戸時代中期、島津の家臣たちは、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事を行う宝暦治水事業の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件があった。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。工事完了後、借金を個人名義で行った薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。こうしたことがあったことから、薩摩藩士は徳川幕府に対して恨みを持つようになり、幕末に薩摩藩士が倒幕運動に走った一因となった。この点は徳川幕府も反省してほしい。
 眞田幸村の薩摩落ちについては眞田博明さんも認めていました。香川眞田家の眞田博明さんは眞田幸村の薩摩落ちを認めていて、鹿児島県南九州市頴娃町別府・大川に住む父の再従弟・眞江田幸一の家に来たことがあります。また、眞田博明さんは私の勤めていた労働省労政局労働組合課を訪ねてきたこともあります。私が学習院の桜友会名簿に載っている松代眞田家当主・眞田幸俊氏にも家系図を送ったら、代わりに眞田博明(眞田六文会会長)氏が労働省労働組合課に訪ねてきました。何度か訪ねてきたとき、いろいろ話し、眞田一門の系図や鹿児島の古文書「薩摩風土記」などを同氏からいただいた。同氏によると、当時、東京都文京区に住んでいた眞田博明氏は、総理府を定年退職後、観光旅行のつもりで、眞田幸村や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃、秋田の大館など)を旅行した。頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に眞江田幸一(曾祖父・難波周八の弟・眞江田三左衛門の孫)の家を案内してもらった。眞田幸村の墓があるというので、行こうと思ったが、夜遅くなって暗くなってきたためいけなかった。事情をよく知らない眞江田幸一は「御本家に聞いてくれ」と言うばかりで埒が明かなかった。なお、私の父・濵﨑秀男は眞江田家の嫡流である。眞田博明氏は、同氏の尽力により、そのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」(眞田博明監修)で放映するので、それを知らせに来た。平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本三代英雄(源義経、坂本龍馬、眞田幸村)不死伝説の一つとして、眞田幸村の薩摩落ちが紹介された。眞江田幸一とその母・フクが映像で紹介された。私が母の法事で鹿児島県川辺郡知覧町塩屋に行った際、鹿児島県揖宿郡頴娃町別府・大川の眞江田幸一の自宅を訪ねたら、母・フクは「頴娃町で評判になった」と喜んでいました。このように、眞田博明(香川眞田家)さんも眞田幸村の薩摩落ちを認めていました。真田徹は、面倒くさいので、眞田幸村の薩摩落ちを否定しているが、「真田大八死亡の噂を流した」とか「系図の偽装(叔父の子孫)」とか「子供5人の保護説」とかの話をねつ造している。法螺吹き真田徹に眞田幸村の薩摩落ちを否定されるいわれはありません。
 江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。
 仙台真田家の真田徹は「幸村と政宗は年齢がほぼ同じです。政宗が“家康の首を取ってくれたら、なんでもしてやる”と幸村に持ちかけ、ふたりのあいだに密約があったと見ています。家康が亡くなれば、政宗は自分が江戸幕府を牛耳れると思っていたでしょうからね。惜しくも幸村は家康の首は取れませんでしたが、家康を心胆寒からしめるまで追い詰めました。『いい夢を見せてもらった』と政宗は満足し、幸村の子どもを引き取ることを許したというのが隠された歴史ではないかと考えています。最終的には幸村の子ども五人、次男の大八、三女の阿梅、それに六女・七女・八女が片倉小十郎の元に落ち着きます」と言っているが、真田徹はこれまでもいろいろ話をねつ造してきた。真田徹の眞田幸村と伊達政宗の密約説は、徳川家康を苦しめた眞田幸村が関西や東北で人気を博したが、その流れに乗ったものと考えられる。徳川家康を敵視する関西や東北の人間は目が曇っています。私が生まれた鹿児島では西郷隆盛が人気で、眞田幸村は人気がありません。私が育った岐阜県では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が人気で、眞田幸村は人気がありません。だから、眞田幸村を客観的にみることができます。そもそも「伊達政宗が眞田幸村の子5人(次男の大八を含む)を保護した」という話が真田徹の作り話であり、法螺吹きがエスカレートしていると言わざるを得ない。 私の父は「大坂夏の陣には空白の一日があり、何らかの談合が行われた可能性がある」と言っていました。5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」では違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。実際、徳川宗英さんの言うような奇妙なことがいろいろあったようです。私は、真田幸村が薩摩落ちし、頴娃町で暮らしていたとき、幸村の世話をしていた百姓の娘に産ませた子・瓢左衛門の子孫です。私の父は、曾祖父の難波周八や郷土史家らか聞いた話として、大坂夏の陣に空白の一日があり、そのときに何らかの談合が行われた可能性があると言っていました。最初から真田幸村が徳川家康のスパイだったかどうかはわからないが、そこに何らかの談合があったらしい。
 頴娃村郷土誌によると、眞田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が、私の先祖・瓢左衛門(ひょうざえもん)である。昌彦叔父によると、前の難波家の墓に「瓢左衛門、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、菊蔵(2世)、周八(2世)」と先祖代々の系図が刻まれていた。難波家の墓はその後立て直された。江戸時代後期の眞江田菊蔵(2世)の子は市左衛門、周八(2世)、三左衛門、児玉ヨシなど5~6人の女子でる。難波周八(2世、旧姓眞江田)の子は常幸(カナダ)、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。濵﨑(旧姓難波)秀幸の子は昌幸(夭折)、秀男、春子、昌隆(軍属・戦死)、昌彦、昌治(存命中)である。秀男の子は秀文、秀達、秀武(中絶)、秀彰である。秀文の子・原田星良は日本大学芸術学部演劇学科劇作コースに通い、劇団東俳優の劇団員でもある。なお、私も日出藩第19代当主・木下崇俊さんも眞田幸俊さんも徳川宗英さんも学習院出身です。私の弟も眞田幸俊さんも徳川宗英さんも慶應義塾大学出身です。意見は一致している者同士です。私は、昨年、厚生労働省本省を定年退職したばかりです。兄は、早稲田大学商学部卒、コロンビア大学大学院経営学修士(MBA)で、バイオ二ア(株)を退職しました。弟は、慶應義塾大学経済学部卒で、カシオ計算機(株)にまだ勤めています。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

真田幸村の薩摩落ち

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月27日(水)01時13分45秒
返信・引用
   5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」とは違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。
 5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。しかし、『真武内伝追加』によると、「実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった」と記している。
 幸村の首も首実験にかけられ、徳川方についていた叔父の真田信尹が確認しましたが、「面相が変わっている為断言できません。幸村の額にこのような傷はなかった。そう答える」彼に家康は「二度も幸村に会っている癖に断言できないのか」と激昂します。でも、信尹にも言い分があって、彼が幸村に会ったのは夜でしかも信尹は老眼でした。結局は口の中の欠けていたとされる歯の数や、首がつけていた兜が確かに幸村と一致したので首は確かに幸村と断定されました。
 大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられている。というものの、過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにした。おそらく、徳川に改易にされそうになったときの隠し球にしようとしたのかもしれない。島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに真田幸村・大助親子、豊臣秀頼、木村重成らを密かに救い出したのである。家康が河川の多い低湿地帯となっている大坂城の北西方面に手厚い陣を布けなかったことを幸いなことに、真田幸村や豊臣秀頼らは、島津家の家臣伊集院半兵衛が京橋口から忍び入れた小舟に乗り、急流に乗って一気に川口まで下って本船に移った。夏の陣の頃は梅雨の季節で、大和川(寝屋川)、平野川や淀川はなみなみと水をたたえ、その合流した急な流れに乗ることができた。
 この秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 鹿児島県揖宿郡における伝承によると、真田幸村らは、和歌山方面から、島津の軍船に乗って、鹿児島湾(錦江湾)に辿り着いた。幸村は、この時、親鸞上人が書いた直筆の掛軸、秀頼から頂いた「おねぐい」の鞍などを鹿児島に持ち込んでいる。
 大坂落城のとき、大坂城の北、天満方面にはほとんど東軍の姿はなく、城兵は自由に逃げ出せる状態にあった。参戦したら、北方、西方に配置される予定だった西国方面の大名はほとんど戦に間に合わなかったのである。7日の夕方落城し、翌日にはすでに京都あたりへ大勢の落人が逃げのびていった。名のある武将で逃亡した者も少なくなかった。その中でも、長曾我部盛観、大野道犬治胤、秀頼の息女(7歳)、息子国松(8歳)らは逃亡中捕えられ、尼にされた秀頼の息女と国松を除き、みな殺された。
 国松は、北の政所ねねの実兄・木下家定(大分県の立石藩主)に預けられ、木下家定の三男・木下延俊として、そこから分家し、日出藩中興の祖となった。真田博明氏は、これを「公然の秘密」と述べていた。
 豊臣秀吉から豊臣姓を称することを許されていた真田幸村が秀頼とともに薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と京童に歌われた。実際には、秀頼は背丈が6尺5寸(1メートル97センチ)で、水戸泉のような体格をしており、酒好きであった。逆に、幸村の方が小柄な優男であった。
 当時のイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
 また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると、「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えている。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
  鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀からさらに小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話がけっこうありますから」と言っている。
 おそらく島津の軍船は太平洋側を航行したために徳川の探索に引っかからなかったのだろう。実際、幕末の西郷隆盛も徳川幕府の関所に引っかからないようにするため、太平側を航行し、大波で揺られ、難儀したことがあった。
『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。
 後藤又兵衛は、揖宿郡頴娃町別府・耳原(みんばい)に住み、真田幸村は、同町大字牧之内字雪丸(ゆんまい)に住んでいた。幸村の墓は雪丸にある。ここの「くりがの」小学校にその記録である郷土史が保管されている。
 雪丸(幸村がいたことから、雪村(せっそん)と呼ばれたが、のちに雪丸と呼ばれるようになった)に辿り着いてから、真田幸村は、息子大助を「秀頼公をどうしてご出馬さ.せることができなかったのだ!!」と大声で叱責した。大助も負けずに反論したため、口論となった。両方ともとてつもない大声で口論しつづけていたため、地元の人間はみな驚き、不可思議に想った、と在地の伝承は伝えている。
 肥前平戸藩主、松浦静山の随筆である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、真田幸村について、次のように報告している。谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものがあることを当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、真田幸村や豊臣秀頼についての記録を残している。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。
  大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)
 真田幸村は、ここに住んでいるとき、松代真田家の藩主の父として生きている信之(信幸)と何度か手紙を交換していた。真江田家(難波家)では、真田幸村が真田信幸に幾たびか手紙を出したという言い伝えがある。また、真江田家(難波家)には真田信幸とやりとりした手紙が大事に保管され、現在も残っている、と言う。
 真田家の重臣・玉川家の配下の同心(足軽)某は毎年、伊勢代参と称して上方へ上った。その出発の前夜は、玉川と夜の明けるまで密談して出かける例で、しかも、ふつうの伊勢代参より7日も10日もよけいの日数がかかるのであった。同心の女房はそれを不思議に思っていたが、夫が重病にかかって命旦夕に迫ったので、「何十年も連れ添いながら、秘密をかくしておられるのは口惜しい。のこりなくお話ください」と責めた。そこで、その同心が妻に物語った次のようなことだったという。
 「ある年、玉川の旦那の供をして伊勢参宮に行ったが、参宮ののち、熊野の裏山の方へ行き、2日ほど家も道もない所へ分け入ると、洞窟の前へ出た。玉川の旦那は私を口元に残して、一人で奥深く入っていかれた。さて、その後は毎年、伊勢代参の名目で私一人がそこへやられる。いつも状箱一つ持って行く。その状箱の上には『上』とばかり書いてある。岩屋へ着くと、内から白髪総髪で、髭が帯あたりまで下がっている七十余ほどの老人が出て来て、無言のまま状箱を受け取り、一夜過ぎてのち、返礼らしく、その状箱を封じ、上に『参る』とばかり書いて渡す。それを持って来って玉川の旦那に渡すと、任務は終わる」
 真田博明氏が松代藩当主・真田幸俊宅を捜したが、手紙は残っていなかった。幕府が松代藩を改易する口実にすることを恐れて、届いた手紙を残さなかったのかもしれない。なお、眞田幸貫は、松平定信の2男で、眞田家の養子となり、のちに、老中として幕閣にも参加した人物である。 実際、松代藩は、石田三成からの誘い状を残していたが、幕末までずっとかたときも厳重な見張りを怠らず幕府に漏れないよう細心の注意を払い続けたくらいである。そのための見張り役もいた。
 真田幸村が隠密に諸国を旅していたらしいことが、その足跡から分かる。
  九度山善名称院(真田屋敷)の尼の物語──大坂落城後、元和2年の正月から、年毎に侍が一人来て、九度山の真田昌幸の屋敷跡を拝し、村内の幸村旧縁の家に一泊して帰るということが9年間続いたという。10年目からは来なくなった。この侍は幸村の参代で、幸村が10年目に死亡したために来なくなったという。
 奈良屋角左衛門の話──真田幸村が蟄居時代にいた九度山に程近い橋本に奈良屋角左衛門という商人がおり、時々九度山の幸村のもとに来て碁の相手をしていた。幸村は大坂入城の時に碁盤を角左衛門に与えた。大坂の陣の翌春、幸村の馬の口の者が奈良屋に訪ねて来て、「相変わる事はないか。我らも無事だ。」と幸村の口上を伝えた。それから5年間は年毎に口の者が来たが、6年目からは来なくなったという。
 飯田氏──秋田県大館市の浄土宗一心寺に幸村の墓がある。ここでは幸村は飯田氏と姓を変えている。秀頼が没すると幸村・大助父子は、その冥福を祈るため、諸国の霊場を巡礼し、北陸路から奥州路に入った。幸村は、ここでの俗名は市兵衛といい、寛永18年(1641)に76歳で没した。子の大助は元禄4年(1691)に89歳で没している。飯田姓を名乗るようになったのは、凶作の時に多くの金銀を藩に献納した功により名字を許されたので、故郷の地名にあやかったのである。上田ではなく飯田にしたのは幕府に遠慮してのことである。
 頴娃村郷土誌では、次のように記述されている。
……(前略)……
 其の大阪一乱後わが薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、大谷吉?(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし(古老談)直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するし(伝説)したから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたことだらう
 「薩藩舊傳集」には木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、囲碁に耽る、萬治二年六十二にて死す、加治木安國寺に墓あり、書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
 また「薩摩風土記」には鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系図ありといふ、木村權兵衛という人あり、これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、同所仲町につさやあり秀頼の書物ありと云々
……(中略)……
 尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を芦塚大左衛門と呼び、其の子の大助幸綱を芦塚中左衛門と呼び又その孫を芦塚小左衛門と呼んでいたさうである(鹿児島外史)さうして眞田幸村の子大助幸綱は後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子天章四郎豊禎(或いは天草四郎時貞に作る)を惣大将に押し立てて、前肥島原にキリシタンの大騒動を捲き起こした大豪傑であつた
 眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、必ず禎祥ありの義に拠つて名づけたものである
 其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程大豪傑で、その聡明雄略まことに倫を絶し、其の時わづか十四歳の若僧ながら馬を一陣に進めて、三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が木下籐吉郎時代の武者振りを其のまゝ目に見る如き心地して、敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと感嘆措かなかつたものだつた
 だか、其の神童天草四郎豊禎も、天下の大軍にはとても敵対出来るものでなく、彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は幕将松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から十重二十重に攻め囲まれ遂に元和二年二月二十八日もろくも落城した、其の時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、得意の幻術を使って島原一園、黒暗々の大魔界となし其の隙は四郎豊禎以下の残党を薩摩に逃げさせた
 天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、代々百姓となり、然も其の家には豊臣秀頼が遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を襲藏したものだつたまた眞田幸綱の子孫は山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、其の六曜星を俗間では六文銭と誤まり傳へてゐる
 ところで―頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある、土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた
 でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった、さうすると間もなく月満ちて、其の女は産の紐を解き、丸々と太った玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、苗字帯刀を許された男である、さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、其の姓名を眞江田三左衛門といふ其の眞江田は眞田をもぢつたもので、三左衛門は左衛門をもぢつたものである、若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、一廉の武士にでもなつて居るべき筈である
 この天草四郎が豊臣秀頼の子であるという話は、天草地方にも言い伝えがあった。鹿児島外史は、甲子夜話と同様に、こうした当時のゴシップを集めたものであり、必ずしも真実かどうかの確認をとった訳ではなく、その信憑性は保証できない。豊臣秀頼や真田幸村らの薩摩落ちが真田三代記で有名になっていた時に、島原の乱が起こったため、その噂が広がる過程で、豊臣秀頼のご落胤説がつくられていったのかもしれない。その真偽については今もって不明である。時空警察5というテレビ番組ではこの説に基づきドラマがつくられた。完全に否定することもできない。
 上記のように、頴娃村郷土誌によると、眞田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が、筆者の先祖(瓢左衛門─ひょうざえもん)である。
 この瓢左衛門(ひょうざえもん)の後、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、菊蔵(2世)と続いた。この系図は、濵﨑昌彦叔父さんによると、前の難波家の墓に刻まれていたそうです。今の難波家の墓はその後立て直されたものです。眞江田家は、徳川の世も終わりに近い幕末になって藩主から苗字帯刀を許された。そのとき、先祖・眞田の名前をもらい、眞江田と名のるようになった。江戸時代後期、眞江田菊蔵(2世)の子供には、市左衛門、難波周八(2世)、三左衛門のほか、児玉ヨシなど5~6人の女子がいた。
  当時の薩摩はまるで独立国家のようで、しかも辺境の地にあり、幕府も容易には手出しができなかった。まして、確証でもない限り、強制捜査などとうていたいできる訳がなかった。大勢に影響がない以上、事を荒だててまで、落武者狩りをすることは得策ではないというふうに、徳川幕府が考えたとしても別におかしくはない。
 眞田幸村直系の子孫である眞江田家では、江戸時代から眞田の姓を名のろうとしていたが、徳川への遠慮から控えていた。
 松代眞田家の第8代藩主・眞田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域、(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述するとともに、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。一方で、眞田幸貫は、幕末も近くになると、いろいろな書物に書かれたことから、幕府も松代眞田家の第8代藩主・眞田幸貫に尋問した時、「往時のことは戦火にて記録焼失して判り申さず」と逃げている。なお、眞田幸貫は、松平定信の2男で、眞田家の養子となり、のちに、老中として幕閣にも参加した人物である。
 『甲子夜話』は、「信幸は、真田三代記に真田幸村の薩摩落ちが語られたことから、頴娃の幸村(信繁)と目されるこの人物に使いをやったが、使いの問いに対して、(幸村は、落ち延びた身であり、使いが本物かどうかも分からないので、間者かもしれないと疑心暗鬼になり、)自分が幸村であるとを認めることができなかった」としている。
 天保14(1843)年に成立した真田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中になど枚挙にいとまがない。「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたり加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが幸村だった」と書かれている。
 眞田幸村の子孫は徳川幕府に遠慮しながら、江戸時代を通じて一貫して身分を隠して生き続けていた。
 難波周八は、幸村から代々伝えられてきた「おねぐい」の鞍、親鷲上人直筆の掛軸等を家宝として持っていた。幸村の遺産はいろいろあったらしい。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜わったもので、「かごどん」(“鹿籠”=枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒飲み比べをして、負けたため、この「かごどん」に取られてしまった。このため、周八は、上京をあきらめてしまった。真田幸村の子孫ということに、ねたみを持つ近辺の人聞によってつけ火(放火)されたこともあった。
 曾祖父・難波周八は、「難波」という武家の株を買い、池田清元衆議院議員邸に書生として下宿していた。のちに造士館(現在の鹿児島大学、旧制7高)の塾頭(学長)となった。それを引退してから、妻の(荒武)伊勢と共に故郷の頴娃町に帰って、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていたが、造士館の塾頭という経歴に嫉妬した周辺住民による嫌がらせをさけるように、晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧をして暮らしていた。難波周八の子は、常幸、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。 祖父の難波秀幸は、若い頃、阪急電鉄の運転手をしていたが、頴娃に戻ってから、知覧町塩屋を代々治めていた浜崎家に男子がなかったことから、知人による勧めで、長女の濵﨑シゲの婿養子となり、濵﨑本家を継ぐため、濵﨑姓に改姓した。濵﨑家は、江戸時代に山中家から分家した石脇(こくぶ)家が明治になって濵﨑と改姓した。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

ご返事

 投稿者:伊東潤  投稿日:2017年 9月13日(水)14時54分41秒
返信・引用
  辻本様
ご丁寧にありがとうございます。
『野望の憑依者』という渋い作品をご評価いただき、ありがとうございます。
われわれの世代は、こうしたクールな作品が好まれますね。

幸村落ち武者伝説の作者様
私の知らない知識を教えていただき、ありがとうございます。
幸村の一面を知ることができました。
 

西郷隆盛の軍略の原点

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 7日(木)01時55分28秒
返信・引用
   20年前に読んだ西郷隆盛の本に「島津の藩校である造士館で軍略の教本として真田三代記を使用していた」と書いてありました。
 真田家が直接、幕末の倒幕運動に手を貸したのではなく、西郷隆盛らが真田の軍略を独自に研究したというのが実情です。
 そういう意味では、真田家が徳川家を倒したともいえます。
 

真田家が討幕したのか

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 7日(木)00時04分13秒
返信・引用
   イギリス商館長のリチャード・コックスの日記によると、「秀頼様は重臣5・6名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある」となっている。
 鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 真田六文会会長の眞田博明さんよると、「真田幸村は、谷山から尾根伝いに頴娃に潜入し、1年ほどいてから、秋田県大館市に向かった」ということである。その真田博明さんから真田大助の行方を調べるよう依頼されたが、いろいろな説があり、いずれも確証にかけるので、困っています。
 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸には田原武雄が所有する私有林の中に伝・真田幸村の墓がある。
 頴娃孫郷土誌によると、「頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある。土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた。でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった」としている。
 その娘が生んだ子が瓢左衛門である。私はその子孫です。
 私の父は、曾祖父の難波周八や同門の田原武雄や秀頼の子孫などから聞いた話として、「真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となった」と言っていた。
 明治維新後、島津斎彬の孫で、忠義の子久範はこの佐土原島津家を継いだ。久範の二男久永は、近上天皇の妹清宮貴子を嫁にし、禎久という子を儲けている。久永は、現在、ソニーの取締役をしていた。島津久永、貴子、禎久の3人は、小和田雅子さんが皇太子妃に正式に決定してから催された小和田家、天皇家の親戚を集めての夕食会には、皇族として出席した。
 この件については、宮崎県宮崎郡佐土原町役場に問い合わせたところ、郷土史家もそのような話は聞いたことがないということであった。また、真田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は60歳代で既に亡くなっており、父・秀男が曾祖父や秀頼の子孫から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。
 真田家が徳川家を倒したのだとすると、真田大助が島津家に入ったのだとして、その際、どのように島津家に入ったのかを調査する必要がありまする。
 

伊藤先生

 投稿者:辻本勝浩  投稿日:2017年 9月 2日(土)11時17分57秒
返信・引用
  初めまして。日本史と伊藤先生の本は大好きです。初めて”野望の憑依者”を読んだときは衝撃でした。実は、伊藤先生とは同い年で、しかも同じ外資系企業にいました。今は私もすでに退社していますが懐かしいです。これからも、応援しています。  

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