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Re: いまさらですが

 投稿者:小田原のパク  投稿日:2018年 2月19日(月)07時52分37秒
返信・引用
  > No.362[元記事へ]

> 韓国については、もっと研究したいですね。
> NHK出版のWebマガジンでは、韓国の倭城の築城物語を掲載しています。
> 『もっこすの城 熊本築城始末』
> 無料で読めます。
> https://www.nhk-book.co.jp/pr/magazine/?id=ito_mokkosu
おお。ありがとうございます。読ませていただきます。

> 直木賞でも取れば、その機会に売り込み攻勢を強めていくと思います。
是非!応援します。

> ただ今のところ講演予定はないので、早くて五月の五代祭りですね。
なるほど、ブログで予定確認します。

前よりは暖かくなりましたけど、まだまだ寒い日が続きます。
くれぐれもお体にはご留意ください。
 
 

Re: いまさらですが

 投稿者:伊東潤  投稿日:2018年 2月18日(日)14時03分51秒
返信・引用
  > No.361[元記事へ]

小田原のパクさん

カキコミありがとうございます。

> はじめまして。
> 今更ですが、「黒南風の海」読みました。

ありがとうございます!

> 私は韓国人で、戦国時代物が好きですが
> 子どものころ学校で学んだ朝鮮の歴史と、戦国時代話がこんなに絶妙語られている作品は初めて観ました。
> 韓国人としては悲しい歴史ですが、この本の話なら絶対受け入れられる!と思います。
> あと、機会があれば日韓共同制作でドラマ・映画化されても面白そうですね。

韓国については、もっと研究したいですね。
NHK出版のWebマガジンでは、韓国の倭城の築城物語を掲載しています。
『もっこすの城 熊本築城始末』
無料で読めます。
https://www.nhk-book.co.jp/pr/magazine/?id=ito_mokkosu

これからこの作品では、主人公の築城家と金宦がぶつかり合いながら熊本城を築城するという展開です。
ただしNHK出版側の予算の問題で、現在、止まってしまっています。


> ちなみに韓国語版を出す予定はありませんか?(今の雰囲気だと、まだ早いのかな・・?)

すでにエージェントを通して声を掛けていますが、あまり動きはないようです。
直木賞でも取れば、その機会に売り込み攻勢を強めていくと思います。


> そういえば、ブログを観たら昨年小田原にいらっしゃったんですね。
> また来られる予定はありますか?

小田原にはしょっちゅう行っています。
ただ今のところ講演予定はないので、早くて五月の五代祭りですね。

今後とも、よろしくお願いします。
 

いまさらですが

 投稿者:小田原のパク  投稿日:2018年 2月12日(月)20時34分2秒
返信・引用
  はじめまして。
今更ですが、「黒南風の海」読みました。
私は韓国人で、戦国時代物が好きですが
子どものころ学校で学んだ朝鮮の歴史と、戦国時代話がこんなに絶妙語られている作品は初めて観ました。
韓国人としては悲しい歴史ですが、この本の話なら絶対受け入れられる!と思います。
あと、機会があれば日韓共同制作でドラマ・映画化されても面白そうですね。

ちなみに韓国語版を出す予定はありませんか?(今の雰囲気だと、まだ早いのかな・・?)

そういえば、ブログを観たら昨年小田原にいらっしゃったんですね。
また来られる予定はありますか?
 

Re: 幕末雄藩列伝

 投稿者:伊東潤  投稿日:2018年 1月18日(木)09時37分8秒
返信・引用
  > No.359[元記事へ]

槙卓様

> 著書の幕末雄藩列伝を読みました。
拙著をお読みいただき、ありがとうございます。

> 私は文才がなく資料はあります。槙家について書いていただければ資料等協力は惜しみません。
> 武士道を現代に至るまで貫いた家族を取り上げていただけるなら有難いと思います。

お申し出、ありがとうございます。
しかしながら私は一小説家なので、地元の歴史博物館にご相談した方がよいと思います。
その方が資料の散逸もないですし、ご先祖の事績を残すことにつながると思われます。
 

幕末雄藩列伝

 投稿者:槙 卓  投稿日:2017年12月15日(金)19時45分25秒
返信・引用
  著書の幕末雄藩列伝を読みました。私の曾祖父は長岡藩の家臣で槙小太郎と申します。列伝を読みまして深い感銘を受けました。私の曾祖父は北越戦争に家族で参加し重傷を負いました。その後の家族での逃避行等波乱に満ちた生涯を送りました。
私は文才がなく資料はあります。槙家について書いていただければ資料等協力は惜しみません。
武士道を現代に至るまで貫いた家族を取り上げていただけるなら有難いと思います。槙

メールアドレスsumikokur@aol.comです。
 

ご無沙汰しております。

 投稿者:伊東潤  投稿日:2017年11月26日(日)14時24分49秒
返信・引用
  落合様

佐山藩の研究は価値がありますね。
せっかく『深重の海』を読み終わったのなら、ぜひ読書会にも参加下さい。
12/2に行われますが、東京ですので難しいかもしれないですね。
実生活もがんばって下さい。

読書会の詳細はこちらになります。

http://peatix.com/event/312225/view
 

深重の海

 投稿者:落合芳和  投稿日:2017年11月19日(日)23時59分34秒
返信・引用
  18日土曜日、読了しました。和歌山弁の台詞に最初は戸惑いましたが、読んでいるうちにだんだん慣れて真ん中あたりから一気に読んでしまいました。重い内容で、どのように思ってみても、安全な場所から、ああすればよかったやこうすればよかったと軽々しく言えない、重みのある作品でした。蓮如上人の御文か何かで、一呼吸の間も人間の命はどうなるのかわからないというような、言葉があったのを思い出しました。また、間をおいて読み直そうと思います。素晴らしい作品を薦めていただき、ありがとうございました。  

深重の海

 投稿者:落合芳和  投稿日:2017年11月13日(月)00時08分3秒
返信・引用
  ご無沙汰しております。メルマガ毎回楽しみにしています。先日メルマガの方で紹介されていた津本陽さんの『深重の海』の文庫本を見つけたので、早速読み始めています。私生活が落ち着きましたら、狭山藩のことなどもブログにまとめるなりしようと考えています。今は実生活が『武田家滅亡』状態ですので、なんとか活路を開いて、ゆっくり伊東先生の作品を読みたいです。『峠越え』いい作品ですね。思わず2度続けて読みました。  

ありがとうございます。

 投稿者:伊東潤  投稿日:2017年10月 8日(日)15時15分55秒
返信・引用
  詳細な論考を掲載いただき、ありがとうございます。  

幕末と鹿児島眞田家

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年10月 2日(月)04時55分38秒
返信・引用
   もともと島津義弘は徳川家康の味方だった。島津義弘は、関ケ原の戦いの前、徳川家康に味方しようとして伏見城に申し入れたが、鳥居元忠がこれを信用せず申し入れを断ったため、やむを得ず、西軍についた形となった。しかし、徳川家康とは戦う気がなかったので、石田光成の督促にも応じず、最後まで徳川家康と戦わなかった。島津義弘は、逃げるとき、後ろに逃げるとやられるので、前に逃げた。いわゆる「島津の退き口」と言われるものです。後になってからもこの点を主張するとともに、国境の警備を固くしたため、成り行きでしかたなく西軍となったものの、本領を安堵されました。眞田幸村・大助親子や豊臣秀頼・国松親子や木村重成らを薩摩に逃がしたのも、徳川幕府に改易されそうになった時の最後の隠し玉として使おうとしていた。それまでは表面上はこれを秘密にしていた。眞田幸村の長男・眞田大助幸昌も島津家の養子に入れて隠していた。幕末も、最初は徳川幕府についていたが、諸外国から日本を守るため、長州と共に討幕を断行した。決して、徳川幕府を目の敵にしていたわけではない。討幕は、眞田家とは関係なく、西郷隆盛や大久保利通らが勝手にやったものです。
 薩摩藩士は徳川幕府の無理難題に苦しめられた。しかし、江戸時代中期、島津の家臣たちは、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事を行う宝暦治水事業の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件があった。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。工事完了後、借金を個人名義で行った薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。こうしたことがあったことから、薩摩藩士は徳川幕府に対して恨みを持つようになり、幕末に薩摩藩士が倒幕運動に走った一因となった。この点は徳川幕府も反省してほしい。
 眞田幸村の薩摩落ちについては眞田博明さんも認めていました。香川眞田家の眞田博明さんは眞田幸村の薩摩落ちを認めていて、鹿児島県南九州市頴娃町別府・大川に住む父の再従弟・眞江田幸一の家に来たことがあります。また、眞田博明さんは私の勤めていた労働省労政局労働組合課を訪ねてきたこともあります。私が学習院の桜友会名簿に載っている松代眞田家当主・眞田幸俊氏にも家系図を送ったら、代わりに眞田博明(眞田六文会会長)氏が労働省労働組合課に訪ねてきました。何度か訪ねてきたとき、いろいろ話し、眞田一門の系図や鹿児島の古文書「薩摩風土記」などを同氏からいただいた。同氏によると、当時、東京都文京区に住んでいた眞田博明氏は、総理府を定年退職後、観光旅行のつもりで、眞田幸村や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃、秋田の大館など)を旅行した。頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に眞江田幸一(曾祖父・難波周八の弟・眞江田三左衛門の孫)の家を案内してもらった。眞田幸村の墓があるというので、行こうと思ったが、夜遅くなって暗くなってきたためいけなかった。事情をよく知らない眞江田幸一は「御本家に聞いてくれ」と言うばかりで埒が明かなかった。なお、私の父・濵﨑秀男は眞江田家の嫡流である。眞田博明氏は、同氏の尽力により、そのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」(眞田博明監修)で放映するので、それを知らせに来た。平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本三代英雄(源義経、坂本龍馬、眞田幸村)不死伝説の一つとして、眞田幸村の薩摩落ちが紹介された。眞江田幸一とその母・フクが映像で紹介された。私が母の法事で鹿児島県川辺郡知覧町塩屋に行った際、鹿児島県揖宿郡頴娃町別府・大川の眞江田幸一の自宅を訪ねたら、母・フクは「頴娃町で評判になった」と喜んでいました。このように、眞田博明(香川眞田家)さんも眞田幸村の薩摩落ちを認めていました。真田徹は、面倒くさいので、眞田幸村の薩摩落ちを否定しているが、「真田大八死亡の噂を流した」とか「系図の偽装(叔父の子孫)」とか「子供5人の保護説」とかの話をねつ造している。法螺吹き真田徹に眞田幸村の薩摩落ちを否定されるいわれはありません。
 江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。
 仙台真田家の真田徹は「幸村と政宗は年齢がほぼ同じです。政宗が“家康の首を取ってくれたら、なんでもしてやる”と幸村に持ちかけ、ふたりのあいだに密約があったと見ています。家康が亡くなれば、政宗は自分が江戸幕府を牛耳れると思っていたでしょうからね。惜しくも幸村は家康の首は取れませんでしたが、家康を心胆寒からしめるまで追い詰めました。『いい夢を見せてもらった』と政宗は満足し、幸村の子どもを引き取ることを許したというのが隠された歴史ではないかと考えています。最終的には幸村の子ども五人、次男の大八、三女の阿梅、それに六女・七女・八女が片倉小十郎の元に落ち着きます」と言っているが、真田徹はこれまでもいろいろ話をねつ造してきた。真田徹の眞田幸村と伊達政宗の密約説は、徳川家康を苦しめた眞田幸村が関西や東北で人気を博したが、その流れに乗ったものと考えられる。徳川家康を敵視する関西や東北の人間は目が曇っています。私が生まれた鹿児島では西郷隆盛が人気で、眞田幸村は人気がありません。私が育った岐阜県では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が人気で、眞田幸村は人気がありません。だから、眞田幸村を客観的にみることができます。そもそも「伊達政宗が眞田幸村の子5人(次男の大八を含む)を保護した」という話が真田徹の作り話であり、法螺吹きがエスカレートしていると言わざるを得ない。 私の父は「大坂夏の陣には空白の一日があり、何らかの談合が行われた可能性がある」と言っていました。5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」では違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。実際、徳川宗英さんの言うような奇妙なことがいろいろあったようです。私は、真田幸村が薩摩落ちし、頴娃町で暮らしていたとき、幸村の世話をしていた百姓の娘に産ませた子・瓢左衛門の子孫です。私の父は、曾祖父の難波周八や郷土史家らか聞いた話として、大坂夏の陣に空白の一日があり、そのときに何らかの談合が行われた可能性があると言っていました。最初から真田幸村が徳川家康のスパイだったかどうかはわからないが、そこに何らかの談合があったらしい。
 頴娃村郷土誌によると、眞田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が、私の先祖・瓢左衛門(ひょうざえもん)である。昌彦叔父によると、前の難波家の墓に「瓢左衛門、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、菊蔵(2世)、周八(2世)」と先祖代々の系図が刻まれていた。難波家の墓はその後立て直された。江戸時代後期の眞江田菊蔵(2世)の子は市左衛門、周八(2世)、三左衛門、児玉ヨシなど5~6人の女子でる。難波周八(2世、旧姓眞江田)の子は常幸(カナダ)、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。濵﨑(旧姓難波)秀幸の子は昌幸(夭折)、秀男、春子、昌隆(軍属・戦死)、昌彦、昌治(存命中)である。秀男の子は秀文、秀達、秀武(中絶)、秀彰である。秀文の子・原田星良は日本大学芸術学部演劇学科劇作コースに通い、劇団東俳優の劇団員でもある。なお、私も日出藩第19代当主・木下崇俊さんも眞田幸俊さんも徳川宗英さんも学習院出身です。私の弟も眞田幸俊さんも徳川宗英さんも慶應義塾大学出身です。意見は一致している者同士です。私は、昨年、厚生労働省本省を定年退職したばかりです。兄は、早稲田大学商学部卒、コロンビア大学大学院経営学修士(MBA)で、バイオ二ア(株)を退職しました。弟は、慶應義塾大学経済学部卒で、カシオ計算機(株)にまだ勤めています。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

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