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7月に短編集出るそうで

 投稿者:読者  投稿日:2019年 2月20日(水)13時45分46秒
返信・引用
  楽しみにしています。待ち遠しいです。
一番気になるのが『陥穽』関ヶ原合戦なんですが、関ヶ原なんですか? 山中の戦いじゃなく・・
先生、私は『慶長庚子の大乱』を書いてくださるのは伊東先生をおいて他にないと勝手に期待をしております。
今のところ、武田もの、北条もの、天正伊賀の乱など読みました。これからもがんばってください。
 
 

深夜の御投稿を謝す

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 2月10日(日)22時32分26秒
返信・引用 編集済
  伊東潤様
 短日で人生の過去の記憶の断片をあるがままに書きましたが、そのきっかけと場を与えて頂いたことを嬉しく思っています。
 ありがとうございました。

 極論ではあろうが、::人は自分自身について語るとき、それはつねに自慢話である::と私は放言する立場である。卑下したり失敗を語ったり、マイナス面を言うときも、これは裏返しの自慢であることが多い。
         阿刀田 高 著【私が作家になった理由】より引用抜粋

 そういわれればそうかもしれないと一寸だけ気落ちしました。とんちんかんな話でした。

http:// 

 

(無題)

 投稿者:伊東潤  投稿日:2019年 2月10日(日)03時08分14秒
返信・引用
  血潮仙人様

たいへん貴重なお話をありがとうございました。
とても面白かったです。
 

Re: 「男たちの船出」を拝読しました

 投稿者:伊東潤  投稿日:2019年 2月10日(日)03時07分22秒
返信・引用
  > No.373[元記事へ]

チャチャさんへのお返事です。

> 「男たちの船出」を拝読しました。
ありがとうございます。

> 嘉右衛門の嫉妬・自己嫌悪、気づいた時の自分の居場所、存在感の無さへの気づきは、
> 普段、会社で中間管理職をしております私の部下への思い、課での自分の存在感と、
> 心の有り様と重なり、自分を振り返る糧となりました。

私はそれを感じる前に作家になりましたが、分かる気がします。

>
> また、弥八郎の心の成長、その他の人々の心・姿勢・考え、人への接し方も大変参考になりました。

若者は自分で経験して学ばないと分からないものです。


> 以前、司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」「播磨灘物語」「覇王の家」などを読んで、人間の「率直」な嫉妬心や、心の有り様が描かれていることに共感を覚え、自分の成長の糧としたくそのような小説が他にないものか探していたところ、伊東先生の小説に出会えたことは大変幸運でした。
> 他の作品も読ませていただこうと思います。

『江戸を造った男』をぜひ!

これからも、人間の心の動き、素晴らしさを描いていただければ嬉しいです。
> 一方的な感想で失礼いたしました。

2018頃から心情描写を強化しています。
これからも力強い作品を出していきますので、よろしくお願いします。
 

何でも書き込んでいゝ、と仰るので

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 2月 3日(日)19時08分26秒
返信・引用 編集済
  僕は横浜1963に出てくる町の風景がぐさりと意識に刺さると書き込みたくなる。本当は批評を投稿する欄なのだろうがそんなことできやしない。

~~伊勢佐木町の入り口にあたる吉田橋を右に見つつ、クルマは関内から元町まで走り抜けた~~

 この光景で想い出した。

 関内の方から伊勢佐木町に向かう橋の左側には、汚れた白衣に戦闘帽をかぶり松葉杖にすがりアコーデオンを弾く傷痍軍人が居た。
 右側には終戦直後からそこで靴磨きをして居る50歳ぐらいの女性がいた。噂では娘だという無口な温和な女性が時折側に来ていた。

 お客のほとんどがアメリカ兵で橋の真ん中で靴磨き台に足を載せる贅沢な日本人は稀だった。
 店と橋の袂の本店の間を日に何度も行き来するのだが、はしゃぎながら通り過ぎてゆアメリカ兵に敗残の姿をさらす傷痍軍人に恥辱を抱き避けて歩いた。

 終戦直後の吉田橋には靴磨きの浮浪児が橋の両側に肩を寄せ合い並んでいたが、それでも米兵の客は途切れることはなく,餓死を免れ生き延びることができたという。母を亡くし孤児となったその少年達に母として慕われ、うれしいことに成人した立派な姿で声をかけてくれることがあるという。

 橋を潜って港へ艀が行き来した。夜になると、つい最近まで赤線地帯だった曙町や真金町の簡易宿泊所に泊まる金のない、仕事にあぶれた日雇い人夫が運河の船着き場で夜を明かしていた。

 最終の映画がはね人通リか絶えてから店を閉じ、都橋を渡って、未だ闇市の面影が濃い野毛で、飯を食い風呂に入った。

 地面に板囲いしただけの食堂には、進駐軍の残飯を煮る大きな鉄鍋が甘酸っぱい湯気を立てており、【栄養食】という名でどんぶり1杯10円だった。

 因みに当時の住み込み店員の月給は、1日12時間働いて;休みはそ日の朝になってから【今日は雨で暇そうだから休みにしなさい】と言われて「月に1日」だった:失業保険も健康保険:も厚生年金も全て未加入で、2食付き5千円が相場だった。労働基準法を無視されても働き手はいくらでもいた。

 店員になる前の米海軍横須賀基地艦船修理部ガレージでの雑役夫の給料は、新卒大学生並みで1万円を超えていた。勤務は1日8時間で土曜日曜は休みだった。当然,健康保険・失業保険・厚生年金保険も加入していた。

 簡単な面接で即日採用されたが、左右の指全ての指紋をとられた。戦前の小学生は自転車のパンク修理は自分でやるのが当たり前だった。第一,1軒に父親の自転車があるだけで子供はそれに乗るしかなかった。

 指紋採取で指に塗られた粘りのある黒色の物体はパンク修理のゴム糊に似ていた。この時の皮膚の気味悪さと犯罪者扱いの屈辱感は忘れられない。

 食堂の【栄養食】は味噌汁代わりに必ず添えてすすった。その中身は何と何だか全く分からなかったが味が好いのだった。牛か?豚か?鳥なのか?骨が混じっていた。煙草の吸殻はよく入っていた。コンドーム・サックが入っていたと言う奴もいたが、ちっとも気にはならなかった。

 風呂は何時も12時過ぎだった。刺青のない者の方が引け目を感ずるような雰囲気であった。
 湯船から出てしゃがんではいても洗うでもなく、熟睡している奴は良い方で、長々と寝転んでいる奴は邪魔だった。
 ある時,全身黒ペンキで染めらた様な奴が入って来た。流石に皆驚き事情を聴くと、荷がカーボンブラックだったと答えた。

 自分も石炭の冲仲士の経験があったが、そこまでは黒くはならない。そのころの横浜港はまだ機械化がされてなく・石炭を積んだ本船から艀に積み下ろすには、ワイヤーロープで編んだ巨大なモッコ(籠・かご)を船倉に吊り下ろし人間がスコップで掻き入れそして吊り上げるのだった。

 うず高く満載された石炭の山をすり鉢状に形を整え、クレーンで吊り下げられたモッコをすり鉢の底に誘導し傾斜面を巧みに石炭を流すのだった。


http:// 

 

たった一行の重い文章

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 1月31日(木)08時35分14秒
返信・引用
   終戦の日の遠い空の記憶にこんな光景が鮮明にある。

 占領軍総司令官マッカーサーが最初に日本の土を踏む厚木飛行場の上空を音もなく乱舞する機影が見えた。

 それは終戦を承服しない空軍の叛乱であることがすぐに噂で知ることが出来た。

 数日後,東海道線を進駐軍列車が通過するようになり、子供たちが田んぼのあぜ道を走って手を振ると、兵士の携帯食料を小箱ごと投げてくれた。

 そして,リヤカーと牛車しか通らない近くの鎌倉街道を、横須賀方面に展開する部隊の大型車両が、砂塵をまいて走り抜け始めた。

 流石に武装兵をみるのは恐ろしくて逃げて隠れた。

 それから2~3カ月たった小雪まじりの日のことである。何人かの小学生と進駐軍のかまぼこ兵舎に行き遊び半分に石炭運びをした。そして飯時だったのだろう黒人兵から残飯をもらって食べた。

 帰って母に話すといきなり無言で頬をなぐられ雪の地面に倒された。

 あんなにおいしい食べ物をくれたので食べたことを何故叱られたのか理解できなかった。

 生涯で母にたたかれたのはそれただ1度である

 富士山の麓の駿河湾の海浜で生まれ育った母は、大勢の弟妹の長女で、尋常小学校で4年しか教育を受けていないのだった。

【 国が破れ例え飢えてもアメリカ兵の残飯を食ってはならない 】

 無学な母だったが、人間として偉かったのだ。

 子供に腹いっぱい食べさせられない親の悲しみを 今、想い涙が湧く。

 豊田国民学校の4年生で上倉田町に住んでいた。

 小説「横浜1963」の中にたった1行この町名が載っている。文章の前後を読んでもこの町名が孤立しており何故そこに書かれているのか辻褄が合わない。

 おそらく数千の人の目に触れたであろうと思うのだが自分が受けた驚愕に共感してくれる人はいないだろう。

 

http:// 

 

長田弘「記憶の作り方」より

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 1月29日(火)20時09分47秒
返信・引用 編集済
  ~~~記憶は過去のものではない、すでに過ぎ去ったもののことでなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。

 とどまるのが記憶であり、自分のうちに確かにとどまって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。

 記憶という土の中に種をまいて季節の中で手をかけて育てる事が出来なければ、言葉はなかなか実らない。

 自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭に育ってゆくものが人生と呼ばれるものだと思う。~~~長田弘・抜粋
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

 僕【投稿者】は今九州の過疎地・限界集落に住んでいる。横浜に行った者は少なく、修学旅行で東京から鎌倉に行く途中の電車かバスの窓越しにちらりと見た者がいるだけなのだ。

 だから半世紀も前の横浜を懐かしんで話題にしたいと思っても相手がなく堪らなく虚しいのである。

 それは昭和20年5月29日朝「東部軍管区情報・横須賀鎮守府中管区・警戒警報発令」B29の大編隊が駿河湾めざし近接しつつありと、ラジオは繰り返していた。

 雲の上に頭を出している富士山を目指しそこから爆撃の目標地に進路を変え向かうのだった。

 その日、空に雲はなく、遠く爆音が聞こえそして機影が見え始めた。届かない高射砲の弾幕の上を、まるで太平洋の彼方から湧き上がってくるかのように次から次へと

4機編隊で途切れなく何時までも過ぎて行った。

ラジオは空襲警報発令を叫んでいた。やがて横浜の港の方角の空に黒煙が上がり青空が黒雲に覆われ尽くした。

サイパン島の基地を飛び立ったB29爆撃機・500機と空母から飛び立ったP51戦闘機100機が横浜の中心地を空襲したのだった。



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down beat

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 1月29日(火)00時23分58秒
返信・引用 編集済
   高校を出て最初の職業が進駐軍の雑役夫、それから造船所の電気溶接臨時工や沖仲士などを、何れも2~3カ月転々としては失業保険をもらう生活だった。

 その後、伊勢佐木町の住み込み店員をそれまでになく長期間(1年余)継続し、そこも辞めた。

 眩しい喧騒の伊勢佐木町の1本裏通りの若葉町には、まだ焼け跡のままの空き地があちこちに残っていた。

 ダウンビートは何しろ薄暗く、人の表情がおぼろげなのが神経を鎮めるのだった。

 天井には隙間無くアメリカの雑誌【down beat】の表紙が貼ってあった。

 長い時間居ながら、コーラ1本をテーブルに置いただけで、大型スピーカーのリズムに合わせ、床を踏む米兵の姿をいつも見た。

 伊東氏が55年も前の横浜の街並みと風俗を、これでもかこれでもかと描写することに昭和を知らない人々は抵抗感を抱くのではないかと心配しながら読み返している。

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横浜1963

 投稿者:血潮仙人  投稿日:2019年 1月27日(日)08時31分58秒
返信・引用 編集済
   (小説はどんな読み方をしてもよい)浅薄な知識でそう考えた。

 一寸高台に上がれば富士山が見えた、横浜市戸塚区に40歳まで住んで、九州の僻地に移住してから43年の歳月が過ぎ、男の平均寿命に達した。

 伊勢佐木町裏通りに、ダウンビートと言う薄暗いジャズレコード喫茶があり、客の多くは黒人兵だった。

 ある夕方、その喫茶店を出て、日ノ出町駅に向かう途中の電気屋の店先に、東京オリンピックの閉会式テレビ中継を視る人だかりがあった。

 自分はオリンピックがいつから始まっていたのか関心がうすかったので、終わることに何ら感傷を抱いていなかった。

 なぜかその頃の灰色の記憶が鮮明に意識にへばり付いて居てしきりに思い出すのである。

 横浜の過去の歴史にひかりをあてた伊東氏の意図を自分は汲み取ったと勝手に思う。

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「男たちの船出」を拝読しました

 投稿者:チャチャ  投稿日:2018年12月16日(日)09時05分42秒
返信・引用
  「男たちの船出」を拝読しました。
伊東先生の小説を読ませていただくのは今回が初めてです。

嘉右衛門の嫉妬・自己嫌悪、気づいた時の自分の居場所、存在感の無さへの気づきは、
普段、会社で中間管理職をしております私の部下への思い、課での自分の存在感と、
心の有り様と重なり、自分を振り返る糧となりました。

また、弥八郎の心の成長、その他の人々の心・姿勢・考え、人への接し方も大変参考になりました。

以前、司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」「播磨灘物語」「覇王の家」などを読んで、人間の「率直」な嫉妬心や、
心の有り様が描かれていることに共感を覚え、自分の成長の糧としたくそのような小説が他に
ないものか探していたところ、伊東先生の小説に出会えたことは大変幸運でした。
他の作品も読ませていただこうと思います。

これからも、人間の心の動き、素晴らしさを描いていただければ嬉しいです。
一方的な感想で失礼いたしました。

 

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